everything needs...
自分で言うのもアレだけど、過去記事を書いていたわたしは非常に的確に過去のワタシの考えていたことを書けていたなと思う。
でも、わたしに共感する人は極端に少ないし、わたしには到底共感できないものがいいねを稼いでいたりするし、世の中は棲み辛いなんて言う気はないけれど、おもしろいサムシングを探すのは労力がいるし半ば、というかほぼ全て運であるように思えてしまう。
去年までは、就活が憂鬱で苦痛で仕方がなかった。単純だから、説明会に行った企業ほぼ全てに対して"まあ、ここでもいっか"的なことを思っていたけど、気に食わなかったのは自分がシューカツに気を向けなければいけない身分であったことである。
決して"わたしはこんなところで終わる人間ではない"という野心や、"どの会社もカスだし自分が新しいものを作り上げてやる"といった想像力からではなく
卍デキる人間は高等遊民卍
という考え方が頭から離れなかった
文系で、しかも人文系で院にいくのは、お金の他に親の理解がなければ不可能である。院進の先に希望が見えなくても、やりたいことをやっていいよと言ってくれる親のいる人間がうらやましくて仕方ないし、今でもそう感じてしまう。
世の中は金で、もしそうじゃないというのならそれはお金がないという危機感や絶望感を味わったことのない恵まれた人間の夢物語にすぎないけど、自分でどこかで折り合いをつけて、こみっとすーいさいどの瞬間まで生きなければならないのが辛い。
最近思うのは、現場を知る人間の話は重みが違うということである。ストレートで博士までいき、アカポスを得た人間よりも、現場(大学以外)を知って教員をしている人の話はリアリティがある。前も書いたけど、苦労をすることや苦労をした経験がその人を良い方に磨き上げる保証なんてゼロに近いんだけど、経験として、複数の場所を知っているというのは、きっといいことなんだと、自分に言い聞かせる。
さてここでタイトルに戻る。
everything needs something
something needs everything
複数の場所を知るというのは逆に言えばスペシャリストの概念から離れることにならないか
もっと言えば、ゼネラリストの側面に介入しないとスペシャリストになれない風潮になってきたのか
なんかこんなことを思いました。
いんたーねっつに毒されて長文が書けなくなったのでまた今度