自由になること
わたしには到底理解できないしその言葉は出てこないなって意見やその発信者が注目を集めていると、わたしはあと一体どうしたら普通になれるのかと果てしなく考える。
注目を集めたいわけではないつもりで、でも注目を集めるというのは良くも悪くも"一般の人"の琴線に触れていて、普通の範疇に収まる個性が評価される個性であり、当たり前なんだけど個性はマジョリティにウケないと個性として受け入れられない。
気を衒った発言は一般ぴーぽーに気を衒っていると気づかせる発言でなければならない。distinguishなものはfind outされるくらい目立ちきらないといけない。
人生は金だと思うしわたしのメンヘラは金で解決できてしまう安いメンヘラなんだなあと。時間は有限であり何をもってしても1秒前にすら戻れないのだから、それを売って、お金っていう世界共通に価値があると考えられているものに変えて生きている人とそうでない人がいるってすげえなみたいな。金がないから時間を金に換算されて生きているんだけど、まあ時間なんて元から余命で制限されてるし、ナチュラルに金があったら無限に寝たいし遊びたい。
でもお金だけあってもどうしようもないとかいう言説があるように、ある程度余裕ができると、自分を人に影響させたくなるのだろうか。例えば子育て。ダッフィーに新しい服を着せる感覚で、ダッフィーとは違って自分に予測不可能なバラエティに富んだリアクションをする何かを育ててみたくなるのだろうか。
わからないなあ。
小さいころ、母親の手作り弁当や朝からきっちりおかずが3品4品あった朝食が、執着のようにしか考えられなくてこわかった。だれかの世話をしたいみたいな欲求が微塵もない。
虐待について思うこと
あんまり好きなタイトルじゃないし、なぜなら虐待についてなんて考えたくもない わたしは今現在進行形で"虐待"に苦しんでいる子どもに手を差し伸べられるほど強くないし、助けたいと思うほど高尚でも傲慢でもない
もっと正直に書くなら、"悲劇のヒロインぶるな"と言われるのがこわい わたしはいつだって自分の人生のヒロインである
小さいころの夢は音大生になることだった "ピアニスト"と書かずに音大生としていたのは、殊勝なクソガキだったなと思う
ディズニーでプリンセスの格好をする女の子が理解できなかった
ぶっちゃけかわいくないのに、その子の親は惜しみなく"かわいい"と言ってくれるから、プリンセスの格好をする自分に疑いを持たないのだと気づいたとき、ひたすらに自分が心もとなかった
わたしにはそんな親はいなかったから
父はわたしが口答えをすると手をあげた 頬が腫れるまで引っ叩かれたし、真夏に何も持たせてもらえず外に出されて、父の機嫌が収まると、母がそっと中に入れてくれた
父は小さなわたしに、"音大生にはさせないぞ"と言い渡した
その頃からいわばうつ病状態になった
他の人は、親に自分の将来を応援されてるって、ホント...?
8歳の時に弟ができた
正直なところ興味が湧かなかったし、かわいいなんて感情はなかったし、"この子をかわいいと言わなきゃ、わたしのご飯と居場所はないんだろうな"と恐怖感しかなかった
がんばってかわいいふりをしたけどやはり根本的に興味がなかったし、けっきょく弟も、両親が好きじゃないらしいし、大学にいかずに家を出たくてたまらないらしい
"お姉ちゃんとは違うんだ""お姉ちゃんみたいになるな"と言って育てた結果がこれです
いかがお過ごしでしょうか笑
一人っ子でなくなったこと自体には感謝してる
遺産(あるのか?)相続放棄する代わりに介護も葬式関連もやらないと決めているので
死なないと、死んで初めて、世間の力で親がやっと非難にさらされるのは、家族が全能であるという言説がまかり通っているからであり、その点だけは、わたしは堂々と、子どもがかわいそうだと声をあげたい
大人のストレスの捌け口にされるために、エゴにさらされるために生まれてきた子なんていない
わたしとは一生分かり合えないんだろうけど、ディズニープリンセスみたいな子に育ってほしいと思う
妻とか母とかなんらかの役割を果たさないと(少なくとも経済的に)生きていけないけど、それでもわたしは一人でいいやってなる
家族になることは社会的にマトモであると承認を得られる以外なにもメリットがないし、家族に恐怖しかないし、子育ては割に合わない
himselfには興味があるけどhis○○にはなんの関心もない
サッカーなり野球なり、間口の広いことに興味があるってそれだけでだいぶ生きやすいし、わたしは馬の勝ち負け以外に興味がない
尊大な羞恥心
最近、というか、大学に入ってから小説を読むことをやめてしまった。
意図的にやめたわけではなく、半分はネットに毒されたからで、もう半分は、ただ単に新書ばかり読むようになってしまったからだ。
小説を読まなくなったのは、登場人物に共感できなくなってしまったからだと思う。小さい頃は、図書館に足繁く通い、それこそ片っ端から上限ギリギリまで本(小説)を借りて部屋でお菓子を食べながら読んでいた。小さな地元の図書館を当たり前だと思っていたので所狭しと本が並ぶ大学の図書館にぼんやり憧れていた。わたしにとって小説を読むことは、現実逃避であり自分が共感できる人間探しだった。一般に本を読むことは良いことだとされるけど、別に読みたくなければ読まなきゃいいし、読んだってこのザマである()。
わたしは自分のために、自分がそうしたいから本を読んでいた。間違いない。
さて、一心不乱に文字を追っていたころから時間が経って、わたしは他人に偽りの自分ばかり見せている。ほんとは何にもできないことなんて自分が一番よく知っているし、同時に、何も無いなりに何かをやった(努力した)自分を一番知っている。努力は結果を生じなければそれはただの無駄な時間を過ごしたことに過ぎないが、わたしから見て他人は何でも(というか普通の感性を)持っている気がして、何も無い自分に焦るから、"なんでもできる"自分を繕ってしまう。
家族や結婚に価値を感じられないのは、なんかどうがんばっても考え直しても直らなそうだし、家族のためにがんばることが美徳とされる社会ではわたしはただひたすらひとりぼっちだし、それを補う何かを作らなければならないのに、何かができるふりに必死な自分が醜い。人のことを好きになっても家族になると考えると、「ア、わたしはいいです😅✋」となる。人の日常に興味がない。わたしとあっているこの瞬間にわたしの好きなあなたでいてくれればあとは何も求めないし何も求めないでほしい。
それ、愛人(もしかしたらそれ以下)やん
それでいいんだよなあ。社会的にだれかの1番になることは当然こちらも社会的責任が求められるし、そんなものは社会が認めた優先順位にすぎないし、そんな表面はほしくない。
臆病な自尊心
梅雨!サッカー!地獄👹👹
海外ニュースは"日本が勝った!"ではなく"コロンビアが負けた!"みたいなノリで報道してるところが多い気がする。
ダービー現地観戦して思ったけど、サッカーも現地観戦したらあの興奮にゾクゾクしたりするのかな。
今年、今、23年間生きてきて一番サッカーを(わたしなりに)関心を持っている ハズ。
時間と金をかけずして、つまり、自分が何らかの負担を負わずして得られるものなんてないと思うから、わたしは競馬が楽しめてる。考える時間、実際に馬券を買うお金を費やしてこそこう、自分に臨場感を持てるから楽しい。そもそも結局は運であり、騎手も血統もただの要素に過ぎないし、そこがまた好き。100円から始められるあんなにいい暇つぶしはない。
人間関係もいっしょで、金と時間を費やさなければ保てない。相手に歩み寄る時間、好きなものを知ろうとする時間、あとは何だろう。
誰も見ていないこのブログは、ただのわたしの思考の掃き溜めであるし、誰からも共感が得られない(自分には理解できないものが共感を得ていたりするから、またわたしはフツウに近づけていないと力が抜ける)し、将来読み返してフンと思たらそれでいい。
いわゆる文学作品で自分に響いたのが、『山月記』と『人間失格』なんだけど、タイトルの臆病な自尊心は、前者に出てくる有名なフレーズである。(尊大な羞恥心はまた後日書いてみたい)
自尊心って、ツイでいうところの"自己肯定感"で、自分に自信があること、そこまで言わなくても、今現状の自分に満足していることだと思っていて、わたしは身分不相応なことをしているから、臆病な自尊心から抜け出せない。すーぐ相手の気持ちを試すようなことをしてしまう。
サッカーで日本が勝って喜べることはすばらしい心持ちなんだけど、言わばわたしは、自分がサッカー日本代表になることを望んでしまうような感性しか持ってないのである。なんの努力もせずして。
でもなれないと心の底では理解してるし、想像もつくから努力を放棄して、日本が勝って喜んでいる人にフンと思ってしまう。まあ、ただ単純に本当に興味がないのもあるけど、興味を持てることは生きて行く上での暇つぶしを増やすためにも、興味を持てないことよりもずっといい。
サッカーは父を思い出すからいやなのもある。父は人を精神的に追い込む天才で、23になっても大きな声を出す人を見るとビクってなる。
家族や結婚になんの信憑性も見出せないから自分は"サッカー日本代表になりたい"などと考えてしまうのであり、サッカー日本代表も結婚して家族を持っていることにそこはかとない絶望というか、自分に対するあきらめを感じてしまう。
臆病な自尊心を棄てるには自分が変わるしかないし、わたしなりに一生懸命人間関係を保ちたい人に歩み寄ってみたい。人間関係を保ちたい人は、わたしよりも何倍もそして自然に、わたしに歩み寄ってくれるので、わたしもそんな風にしたい。ものすごくエネルギーがいるけど、そんな風にしてみたい。
自然に他人に歩み寄れる人は、わたしの知る限り、家族も結婚も信じているのだけど。
ワールドカップとメンヘラと
奇遇にもラマダンの終了とほぼ同時に、球蹴り大会が開幕した。わたしはてっきり6月いっぱいで終わるものかと思っていたけど、なんと1ヶ月も球蹴りは続くらしい。
ワールドカップが終わる頃にはもう夏真っ盛りなのかなとか、イランとモロッコは国交ないのに試合はやるのかとか、ホットケーキは牛乳よりお水で作った方がおいしいじゃん(発見)とか
そもそもわたしはスポーツに面白さを感じない。そもそもなにが憂鬱かというと、スポーツに関して、興味があって当たり前、知っていて当たり前という前提で話が進むことに尽きる。 わたしは話す相手がハイフェッツを知っていることを期待しないのに。
狭量な考えなんだろうけど、負けても勝ってもどっちでもいいし、何かが変わるわけではないのに大きな声を出して機嫌が悪くなったりする人が見ててこわい。その点競馬はすばらしい。一攫千金である()
まあとにかく、マジョリティな価値観に馴染む能力のないわたしには最高に生き辛い1ヶ月が始まるのである。早く終わらないかな...。
子どもの頃、子どもながらに結婚も家族も自分にはシンドイなと感じたのをよく覚えている。結婚とは目に見えない保証(金)をお互いに差し出す行為であり、一時の気の迷いに一生責任を持たなければいけない。さらには自分が差し出した保証金に見合う何かが返ってくる保障がない。社会的信用、のようなサムシングが得られる。逆に結婚に至らずにある程度の年齢に達すると、"○歳で独身なんて、アレな人なんでしょ"と言われ、(まあ一理ある気もするけど)、好きで結婚した人間に"独身はいいな"と社内の面倒ごとを押し付けられたりするのだ。一方結婚すれば夫として(一般的に)家庭を守ることが求められ、仕事をして金を稼ぎ、仕事が終われば家族との時間をすごし、遊ぶ間も無く休日は家族サービスという名の世間体を維持するための無賃金労働を強いられる。(家族と過ごさなければいけないことをボランティアとしか捉えられないわたしの感覚にも問題があるのだろうけど)。女は恋人から妻になり、母になり、子どもを育て家事をしなければならない。わたしは一生恋人でいたい。妻とか母とかにカテゴライズされたら人生の終わりのように感じられる。(なんというか変化や進歩がないという感覚)
わたしは一生彼女でいたい。妻とか母とかの役割や責任を果たすことに、自己実現的なよさを見出せない。
マジョリティな価値観に馴染む能力がないと生きづらくて大変ですよというお話。
ざっくりざっくりざあぁっくり言うと、わたしはナショナリズムの研究がしたいんだけど、自分がナショナリズムの感覚と程遠いからなのかなとか思った。つまり、イスラムに興味を持つのと同じ感覚。愛着なんて自分の楽器にしかないし、愛は執着なんだよナァ。好きな人の好きな人でずっといたい。愛はいいや。
ALL is NOTHING
英語でタイトルをつける自分にハマっているわけではない、ハズ
ただより自分の言いたいニュアンスを適切に表すために英語っつーか、他言語の方が的を射たりと感じる時ってたまにある
なんでもいいはみんないやと同義だし、みんな好きはだれも好きじゃないと同義だと思う
でも、なんというかこう、"みんな好き"と"きみが好き"を両立してる人を見かけるとすげえと思う(語彙力)
きっと、心のスイッチをうまく切り替えられるというか、よくわからないけど、わたしもそうなりたい
でもわたしは、ALLなんていらない some of them があれば十分
だけど、ALLを手に入れる必要があるなら、手に入れてみせようと思うし、人間関係構築ゲームに気持ちを向けてみようと思う
わたしは小さい頃、父親が大きな声を出したり殴ったり、無視したり、そういうのを見て育ってきたし、そういう前提がなくてもきっと、結婚のメリットがわかない
紙切れ一枚に自分の人生縛られたくないし、紙切れ一枚じゃ人の心を縛るには心許ない
あと、わたしにはまだ読みたい本も行きたい場所もあるから、自分の人生の大半を子育てに割きたくない 自分の遺伝子を後世に残すことに罪悪感のない人間、どんな精神性をしてるんだ
でも、少なくとも結婚に限っては、メリットとかデメリットとかでするものじゃないらしい
4年間で出会ったいろんな人がそうわたしに示してくれた わたしもいつか、考えが変わる時が来るのかな
自由は孤独と表裏一体だけど、まあ何事にもプラスマイナスはつきものだし、全部を俯瞰すればどっかで釣り合いが取れてるのかなと思う
例えば絵や書をみたとき、音楽を聴いたとき、それに何かを感じるためには自分の中にそれに反応する要素がないとだめなんだけど、そんな要素を増やしていきたい
そしたら、わたしの結婚や家族に対する感じ方もいつか変わるのかな
育ちが悪いことも、自分がコンプレックスの塊のことも、早く忘れてしまいたいし、周りに仲良くしてもらえるわたしでいたい
こみっとすーいさいどの勇気がないし、生きるのなんて死ぬまでの暇つぶしだから
何かを成し遂げるためにあがくほど若くないし、自分のこの瞬間の積み重ねが自分の実力だと思えてるかもしれない点は唯一の長所かもしれない
まだまだそんなに解脱できてないけど
everything needs...
自分で言うのもアレだけど、過去記事を書いていたわたしは非常に的確に過去のワタシの考えていたことを書けていたなと思う。
でも、わたしに共感する人は極端に少ないし、わたしには到底共感できないものがいいねを稼いでいたりするし、世の中は棲み辛いなんて言う気はないけれど、おもしろいサムシングを探すのは労力がいるし半ば、というかほぼ全て運であるように思えてしまう。
去年までは、就活が憂鬱で苦痛で仕方がなかった。単純だから、説明会に行った企業ほぼ全てに対して"まあ、ここでもいっか"的なことを思っていたけど、気に食わなかったのは自分がシューカツに気を向けなければいけない身分であったことである。
決して"わたしはこんなところで終わる人間ではない"という野心や、"どの会社もカスだし自分が新しいものを作り上げてやる"といった想像力からではなく
卍デキる人間は高等遊民卍
という考え方が頭から離れなかった
文系で、しかも人文系で院にいくのは、お金の他に親の理解がなければ不可能である。院進の先に希望が見えなくても、やりたいことをやっていいよと言ってくれる親のいる人間がうらやましくて仕方ないし、今でもそう感じてしまう。
世の中は金で、もしそうじゃないというのならそれはお金がないという危機感や絶望感を味わったことのない恵まれた人間の夢物語にすぎないけど、自分でどこかで折り合いをつけて、こみっとすーいさいどの瞬間まで生きなければならないのが辛い。
最近思うのは、現場を知る人間の話は重みが違うということである。ストレートで博士までいき、アカポスを得た人間よりも、現場(大学以外)を知って教員をしている人の話はリアリティがある。前も書いたけど、苦労をすることや苦労をした経験がその人を良い方に磨き上げる保証なんてゼロに近いんだけど、経験として、複数の場所を知っているというのは、きっといいことなんだと、自分に言い聞かせる。
さてここでタイトルに戻る。
everything needs something
something needs everything
複数の場所を知るというのは逆に言えばスペシャリストの概念から離れることにならないか
もっと言えば、ゼネラリストの側面に介入しないとスペシャリストになれない風潮になってきたのか
なんかこんなことを思いました。
いんたーねっつに毒されて長文が書けなくなったのでまた今度