タラレバ
わたしはどうして、フツーに馴染めない(馴染まない)精神性を持ってしまったのだろう
わたしのこの、常につきまとう鬱々とした気持ちは、”社会に興味ない自分カッケー””異端な自分サイコー”なんてカッコつけた、若気の至りあるあるから生まれたものなのか そうでないことを祈りたいけど自分では判断がつかない
↑ここまで昨日の
ぶやぶや着くまで暇なので
大好きなブレハッチのリサイタルに行けた
また人生における悔いがなくなった
ブレハッチイケメンだった
わたしの好きなソリストはほぼ東欧の人だから東欧産のびよりんを買ってみたい
環境のせいにするのは甘え みたいな風潮があるけど、わたしは8割方環境がその人を決めるし、自分の育ちからは逃れられないと思う
そして、逆境を乗り越えてっょくなって、”環境のせいにするのは甘え”みたいな境地に達したら、きっと、もう人に優しくできなくなってしまうと思う
ワタシは自分自身のアイデンティティ、というか自分自身への愛着から逃れられないし、自分自身を完全に俯瞰するなんて不可能だと思うから
タイトルに戻ると、わたしが普通の感性を持っているにはどうしたらよかったかという話
まずわたしは、喘息がひどかった
幼稚園の頃、もっと小さい頃から、自分の意思とは関係なく突然咳が止まらなくなって息ができなくなってものすごい見た目になる
コンプレックスだった
そして当たり前だけど、親でさえも、周囲はなおさら、わたしの苦しみなんてわからない(と同様に、わたしもわたし以外の苦しみを理解することはできない)
嫌なことがあるとそれがストレスになって咳が出る
甘えだ みたいなことをたくさん言われた
わたしにはそれを乗り越えてまで人とコミュニケーションをとる気力がなかった
次にわたしは、家族がわからない
人と関わるようになって驚いたことは、世間一般の親は子どもにブスとか土人とか言わないのだ どんなにピアノが下手くそでも、花嫁衣装のようなドレスを着て、小さな発表会にも臨むのである
これは自分でもよろしくない表現だと思うけど、もう少しまともなカゾクを持ち合わせていたら、音大生くらいにはなれていたと思う
わたしは、自分と遊ぶ約束をした人に、家族を理由に断られるのが死ぬほど嫌いだった 自分のことくらい自分の意思で決めて断れよと思っていた
でも引っ越してきて、またいろんな人を知って、こんな気持ちで断るんだろうなってのが想像つくようにはなったから周囲に圧倒的感謝である
置かれた環境で咲くとかいうパワーワードがまかり通るならわたしは一生底辺だから、縁が切れて困る人もわずかだし、精一杯自分の好きなようにしぬ勇気が出るまで生きてみたい
今まで犯罪も犯してないし自殺未遂もせずによく生きてきたな自分って感じなんだけど、わたしには何か言われてこの人が言うならやめよう、みたいな自分のストッパーになってくれる人、追いかけたくなるほど好きな人を見つけられるほど精神的な豊かさがないことをかなしく思います
音楽だけが精神に染み渡るし、音楽だけが救い