肯定するしかないという絶望
はいタイトルから鬱全開
ウェーイwwwwwww(半角にするのすらめんどくさい)
よくさぁ、「病む」っていうじゃないですか。わたしは「病んで」いるのでしょうか。でも、わたしは、物心ついたときからこんなテンションだから、別に病んでないのかなあとも思います。
わたしには、「どうせわたしなんて」という卑屈な感情が常に付きまとう。幼稚園の年少さんの頃に、「どうせピアニストにはなれない」と思った。「努力は報われる」なんてただの聞こえのいい言葉だ、なんて言う人はある一定数存在しそうです。「じぶんのやったことが結果として身を結んだとき、それを努力したというのだ。」と。
わたしはある一定数はいるであろうメジャーなマイノリティの言葉すら、なんだかしっくりこないのです。
まあ普通に考えれば、わたしに常に付きまとう卑屈な感情は、わたしが生み出した、努力をしないわたし自身の、言い訳なのでしょう。否定はできません。
わたしが言いたいのは、タイトルの通り、「肯定するしかない さもなくば」ということです。受験に落ちた、好きなあの子にフラれた、毎日がつまらない、電車で座れない、友だちがいない、等
そういった、「絶望」に遭遇したとき、選択肢が、「それでも頑張って生きていくしかない」って、めちゃくちゃ残酷じゃありませんか。
時にそういった言葉は、「今の大学でがんばればいいよ」、「まあまた出会いがあるさ」など、励ましというプラスの評価をされて出てくるわけですが、究極的には、現状を受け入れるか、さもなくば、という形になるように思えてしまいます。
さもなくば、の後に続く選択肢は、認められてはいないのです。
わたしは卑屈な捻くれ者なんですかね。まあ一部、わたしが人より絶望していると考えるのは、自身の驕りであることは認めます。
わたしは、その時にすべき努力を十分にしてこなかったから、どんどん登るべき階段が高くなっていて、足をかけることすらできなくなっている、そんな風にも思います。と、いうかそうなんでしょう。
自分に自身を持つには、これでもかと勉強して、疑いを少しでも減らすしかないのに。
わたしは、どうなるんだろう。実家に帰らなければなんでもいい。マジでこのブログでもツイッターでも、精神分析してほしい。純粋に興味がある。