Hermony of the spheres

思考の垂れ流し

ワールドカップとメンヘラと

奇遇にもラマダンの終了とほぼ同時に、球蹴り大会が開幕した。わたしはてっきり6月いっぱいで終わるものかと思っていたけど、なんと1ヶ月も球蹴りは続くらしい。

ワールドカップが終わる頃にはもう夏真っ盛りなのかなとか、イランとモロッコは国交ないのに試合はやるのかとか、ホットケーキは牛乳よりお水で作った方がおいしいじゃん(発見)とか

 

 

 

そもそもわたしはスポーツに面白さを感じない。そもそもなにが憂鬱かというと、スポーツに関して、興味があって当たり前、知っていて当たり前という前提で話が進むことに尽きる。 わたしは話す相手がハイフェッツを知っていることを期待しないのに。

 

狭量な考えなんだろうけど、負けても勝ってもどっちでもいいし、何かが変わるわけではないのに大きな声を出して機嫌が悪くなったりする人が見ててこわい。その点競馬はすばらしい。一攫千金である()

まあとにかく、マジョリティな価値観に馴染む能力のないわたしには最高に生き辛い1ヶ月が始まるのである。早く終わらないかな...。

 

 

子どもの頃、子どもながらに結婚も家族も自分にはシンドイなと感じたのをよく覚えている。結婚とは目に見えない保証(金)をお互いに差し出す行為であり、一時の気の迷いに一生責任を持たなければいけない。さらには自分が差し出した保証金に見合う何かが返ってくる保障がない。社会的信用、のようなサムシングが得られる。逆に結婚に至らずにある程度の年齢に達すると、"○歳で独身なんて、アレな人なんでしょ"と言われ、(まあ一理ある気もするけど)、好きで結婚した人間に"独身はいいな"と社内の面倒ごとを押し付けられたりするのだ。一方結婚すれば夫として(一般的に)家庭を守ることが求められ、仕事をして金を稼ぎ、仕事が終われば家族との時間をすごし、遊ぶ間も無く休日は家族サービスという名の世間体を維持するための無賃金労働を強いられる。(家族と過ごさなければいけないことをボランティアとしか捉えられないわたしの感覚にも問題があるのだろうけど)。女は恋人から妻になり、母になり、子どもを育て家事をしなければならない。わたしは一生恋人でいたい。妻とか母とかにカテゴライズされたら人生の終わりのように感じられる。(なんというか変化や進歩がないという感覚)

わたしは一生彼女でいたい。妻とか母とかの役割や責任を果たすことに、自己実現的なよさを見出せない。

 

マジョリティな価値観に馴染む能力がないと生きづらくて大変ですよというお話。

ざっくりざっくりざあぁっくり言うと、わたしはナショナリズムの研究がしたいんだけど、自分がナショナリズムの感覚と程遠いからなのかなとか思った。つまり、イスラムに興味を持つのと同じ感覚。愛着なんて自分の楽器にしかないし、愛は執着なんだよナァ。好きな人の好きな人でずっといたい。愛はいいや。