Hermony of the spheres

思考の垂れ流し

Hello Mr.spring!

春ですね

4月ですね

久々更新

 

わたしはこれから、留学できても、ヴァイオリンが上手くなれても、心の底からだれかと仲良くなれたり、だれかに共感したりできない気がする

だって、「大学院にいく」とか「音大にいく」って選択肢が元々あった人がうらやましくて仕方ないから

自分で自力で何かを手に入れても、元から手に入ってる人には敵わないし、悪あがきをしているだけに思えて、虚しくなってしまう

だれも友だちだと思えなくなっちゃうから、法的にその関係を認められた「結婚」をするんだろうな 1人じゃきっとさみしすぎるから

わたしの考えだけど

 

人見知りだけど家族とは心を許す みたいのが意味不明だった

どうして「家族だから」大丈夫なの?近すぎる関係ってこわい 近くて当たり前だと思われてる関係がこわい

 

わたしはこのまんま、だんだん壊れていく気がする

気が触れた時、その深層にまともで正気を持ってる自分がいたらどうなるんだろう で、その自我自体は、「狂えない」の 狂っていく自分を、マトモで外に発信する手段を持たないまま見ていなきゃいけない...

前世の罪業深すぎィって感じだ

エンディングノートを書くことを真面目に考えつつあります 延命治療とかやめてほしい

 

人生どうでもいいから、だれに何思われてもどうでもいいし、そのうち何かやらかす度胸もないし、心の中に音楽があればなんとか生きてはいけそう

 

わたしもメンヘラになって、承認欲求満たしてくれる人、この人に認められたら嬉しいって人かつ自分にかまってくれる人がほしい

、、、そんな人なかなかいないし、メンヘラすげえな

 

河合塾に就職したいけど、事務はほぼ派遣らしくて希望がない

 

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ロクな春を迎えたことがないくせに、桜が好きだし春が好き あったかいしお散歩できるし

とりあえずこくそーまでがんばって勉強する 英語やらないと

外に出ること

外に出ること、ただ単に、1人で好きな音楽を聴きながら足が痛くなるまで歩くんじゃなくて(それもいいんだけど)、誰かと話すことをすると、自分の思考が整理されるし、新しい何かしらの感情が生まれるし、それを表現するための語彙が増えます

 

わたしは人と関わりたい欲皆無なので、説明会やら何やらは人と関わるいい機会になります

吸収できることは全部吸収したいし、精神を殺す練習になります

わたしはあとどれだけ「普通」になれば、劣等感や圧倒的底辺性を感じずに生きていけるのでしょうか

 

そう、前回書いた、音楽に関して唯名論実在論か、、、なんてカッコつけた言葉を使わなくても、名前が事実というか存在に先立つのか、存在あってこその名前なのか というオハナシ

 

たとえば、街で自分にビビッと来る音楽を聴いた時、だれの、なんて言う音楽か、気になりますか

わたしは、気になりません

 

なんというか、次、その音楽そのものが流れればまた、きっとビビッと来るし、嬉しいんですけど、それでいいじゃんと思ってしまいます

アーティストや曲の名前で、自分の気に入った曲を判別しようという意欲(?)がありません

だから何感満載なんですけど、ずっとこんなことを考えてました

 

あーやっぱり、上手く書けないな

 

わたしは、音大生になりたかったんですけど、まあ無理で、でもそれより前に、「わたしはいつまでピアノが弾けるんだろう」という焦燥感が頭の中にありました

要するに、音大にいくということを認めてもらえて、あとはがむしゃらに練習するだけ って状態になれなかったので、そこから転じてというか、わたしには何もできないのです

 

別に病んでないけど、人生どうにでもなれ感が常にあるし、外に出るたびに、「普通」との差を、それを表す語彙が思い浮かばないほどに実感するし、学歴やら試験やらでは埋められない溝を、感じる必要はないのかもしれないけど感じてしまいます

 

音信不通の人はまた音信不通なんだけど、それはいいとして、わたしにはもう、「普通」の皮を被って人と接するしか生きていく方法がないことに絶望を感じます

 

18きっぷでどっかいきたい

長崎の伝来当初のキリスト教教会群を見に行きたい

野球とサッカーがわかる人、スポーツに興味がある人は、話の合う人の母集団も多くて有利だなと思いました

 

まーじで旅行いきたい

1人で好きな音楽聴きながら歩き回るのが1番楽しい

18きっぷほしーいー

まいふぇいばりっとくらしかるみゅーじっく! その1

宣言通り、キモいブログ書こうと思います。そもそもこのブログは、わたしの思考の掃き溜めと、歴史と音楽を語るために作ったので、そろそろ、語りたい。

 

その前に、、、「仕事の愚痴を言わない」とか、「人の悪口を言わない」とか言う人いるじゃないですか。でも、愚痴も本音も言えない人間、トモダチじゃなくないですか?言う相手を考えろって話じゃないの?そんなきれいに生きてられないんだよオイって思いました。

 

 

さぁ、クラシックの話ですよ。

クラシック音楽にも、いわゆる「昭和歌謡」と呼ばれる歌があるように、時代性があります。もちろん当代に生きた作曲家たちは、その時代に制約を受けるわけですから、そんなことは意識していないのでしょうが、ある特定の時代に特有の曲調は存在します。(もしかしたら、時代性を意識した作曲家もいるかもしれませんが、彼らの認識を超えたところに、後世に生きるわたしたちが認識する「時代性」はあります、たぶん)

 

 

わたしは、バロックと呼ばれる時代の音楽(JSバッハやヘンデル、ヴィヴァルディ等)が、とっても好きです。時代的には、18世紀の半ばくらいまで。バロックという言葉は、最初は美術の時代様式を区分した言葉でとか、別名通奏低音(伴奏者が即興で音をつける)の時代とも呼ばれたとか

 

そんなことはどうでもいい!!(知らないよりは知ってたほうがよいのは当たり前)

 

重要なのは、バロック音楽の持つ性質が、それを聴く人間に、「美しい」とフィットすることだと思う。そもそも感性は多様であってこそだし、自分の心にフィットするのがクラシック音楽である必要は全くない

 

自分の心にフィットする、人間以外のもの、言い換えるなら何があってもなくならないもの(人は死ぬけど音楽は死なない)に出会えると、かなりメンタルを救ってくれますよね。うーんなんか違うなw

 

さて、バロック時代は、まだ、「音楽は人間が発する神への問いかけ」であった時代なのですが、こういう要素を持つものに惹かれるわたしは、いつか信仰の道に入ってしまうのでしょうか笑

 

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どどん!アルフレッド=ブレンデルは、わたしが小さい頃から親しんできたピアニストです。ピアノの音色というと、ルービンシュタインを思い浮かべる人が多数らしいのですが、わたしは彼の演奏が頭の中に流れます。

 

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 再びどどん!ヴィヴァルディといえばイムジチ合奏団!!いやぁリサイタルにいきたい。イムジチのおっかけをしたいからイタリアに留学するまであるぞ...。イムジチのCDも随分小さい時から聴いてました。

 

 

さて、最後なのですが、実在論だと思いますか。唯名論だと思いますか。わたしは音楽を聴くと、ずーっとこれについて考えてしまいます。ブルーインパルスパイロットについて語った時も同じようなことを書きました。

実在論(実念論?)、つまり普遍が個物に先立つか、唯名論、つまり、普遍は個物に対しての後付けでしかないか。

 

 

明日、気力があったらこんなことを語りたいと思います。

 

想像すること

アレクサンドロス、というバンドがあるそうですね(最近知りました)

 

アレクサンドロス、と言えば、フィリッポス2世の息子、アレクサンドロス3世を想像してしまうし、イッソスの戦いでダレイオス3世と戦ったんだよなと思い出すし、はたまたロマノフ朝のアレクサンドル1世を想像するし、「誠実なる連隊長」の自称を思い出します。

 

うーん、世界史は最高!(ただ単に記憶するのはおもしろいし、記憶したものが連鎖してスラスラ出てくるのは快感)

 

 

 

わたしには、大学1年の時から仲良しのおばちゃんがいます。その人は、わたしにとってもゆるやかであったかい優しさをくれます。その人といると、精神的に本当に穏やかで、普通のなんたるかを想像することができます。

ママと仲が良いっていうのは、ひょっとしたらこんな感情なのかなと想像します。ずっと仲良くいられますように。

 

その人といると、ママのいいところ、やっぱりこわいところ、思い出すことができます。(ママって実際には呼んでないけど、ママって書いた方が、なんか、平和そうじゃない?)

 

 

わたしを勉強に駆り立てるのは、その人が試験に合格したら喜ぶと思うから、という自意識にほかならず、そこまでわかっているワタシはけっこうマシなんじゃと思ってしまうあたり、相当に自意識過剰だなと笑

 

香港まであと少しになりました。マカオまで足を伸ばしたいし、友だちのみたい場所に、迷わずに全部いけるといいな

 

音楽ができて、試験に集中できる環境で、身に余る幸せだと思っています。いつかこの、穏やかな精神状態を自分で自ら壊すことがないように、努力しないと。

 

 音信不通だった子から、手紙の頻度が増えました。春ですね。

 

今日はとってもいいお天気で、去年、その子と千鳥ヶ淵に桜を見に行った日と同じような匂いのする陽気で、泣きたくなってしまいました。

 

 

わたしも、歯を食いしばって足を踏ん張らないといけない。自分でそういう道を選んだんだから。

記録

何も書くことが思いつかないのは、その日自分が何も為さなかったことの証であるように思います。

 

今日の説明会で、「本当は大学院に進み、研究者になりたかった」という人のお話を聞きました。いろんな人がいていいんですよね。「〜でなければいけない」という固定観念で、わたしは自分をぐるぐる巻きにしているのかもしれません。

 

でも、「お前は人としての義務を果たせ」みたいなことを言われます。わたしは、時間を守るし、自殺未遂を繰り返さないし、借金をしていないし、求められた場では相応に愛想良くするし、法に触れることをしません。わたしは何を間違えているのでしょうか。わたしの何が間違っているのでしょうか。自分が必要を感じない人間とは話さないところでしょうか。同世代の人間に「共感」できないところでしょうか。少なくとも今現在、わたしは牢屋の中にいないので、人間の義務を遵守していると思いたいのですが、やはり人からの評価が芳しくないので、まだまだ精神を殺す必要があるんでしょう。

 

なんの必要もなく、興味のない人間と時間を過ごすのって、人生の無駄じゃないですか?ア、「人間の義務」が果たせている人は、そこに、「もしかしたら仲良くなれるという可能性」を見出すのでしょうか。

 

今この場所で言っても状況が変わらないことを言う、自分にプラスマイナス何も及ぼさない人間に精神を割いてマイナスの感情を持つ、めちゃくちゃ人生の無駄 

 

 

 

わたしは、死ぬ勇気もない人間なので、せめてこれ以上、人生において負け戦をしないようにしなきゃならない 勝たなきゃならない 自分の精神の安寧のために

 

 

西武のバレンタインフェアが、いろんなチョコがあって、とても楽しかった

これから先、チョコをあげたいかれぴができたら、なんかこう、混んでる会場でスキップしちゃうくらいわくわくするのかな

 

デジレーってメーカーが気に入ったのですが、お値段がお手頃で有名だそうで笑

 

自分は安い人間だなと思いました。なんか、去年も、デジレーがおいしいと言っていたような気もします。

高いチョコって、カカオの割合が高くて、貧乏人の舌には合わないんですよね。おいしいちょこれいつに巡り会いたいものです。

 

わたしは、一貫して思っていることだけど、ある事象について意見を述べられる人間になりたいです。

 

肯定するしかないという絶望

はいタイトルから鬱全開

ウェーイwwwwwww(半角にするのすらめんどくさい)

 

よくさぁ、「病む」っていうじゃないですか。わたしは「病んで」いるのでしょうか。でも、わたしは、物心ついたときからこんなテンションだから、別に病んでないのかなあとも思います。

 

わたしには、「どうせわたしなんて」という卑屈な感情が常に付きまとう。幼稚園の年少さんの頃に、「どうせピアニストにはなれない」と思った。「努力は報われる」なんてただの聞こえのいい言葉だ、なんて言う人はある一定数存在しそうです。「じぶんのやったことが結果として身を結んだとき、それを努力したというのだ。」と。

わたしはある一定数はいるであろうメジャーなマイノリティの言葉すら、なんだかしっくりこないのです。

 

まあ普通に考えれば、わたしに常に付きまとう卑屈な感情は、わたしが生み出した、努力をしないわたし自身の、言い訳なのでしょう。否定はできません。

 

わたしが言いたいのは、タイトルの通り、「肯定するしかない さもなくば」ということです。受験に落ちた、好きなあの子にフラれた、毎日がつまらない、電車で座れない、友だちがいない、等

 

そういった、「絶望」に遭遇したとき、選択肢が、「それでも頑張って生きていくしかない」って、めちゃくちゃ残酷じゃありませんか。

時にそういった言葉は、「今の大学でがんばればいいよ」、「まあまた出会いがあるさ」など、励ましというプラスの評価をされて出てくるわけですが、究極的には、現状を受け入れるか、さもなくば、という形になるように思えてしまいます。

 

さもなくば、の後に続く選択肢は、認められてはいないのです。

 

 

わたしは卑屈な捻くれ者なんですかね。まあ一部、わたしが人より絶望していると考えるのは、自身の驕りであることは認めます。

 

わたしは、その時にすべき努力を十分にしてこなかったから、どんどん登るべき階段が高くなっていて、足をかけることすらできなくなっている、そんな風にも思います。と、いうかそうなんでしょう。

自分に自身を持つには、これでもかと勉強して、疑いを少しでも減らすしかないのに。

 

わたしは、どうなるんだろう。実家に帰らなければなんでもいい。マジでこのブログでもツイッターでも、精神分析してほしい。純粋に興味がある。

放牧されたい

放牧されたくない?

なんというか、放牧されたい。放牧されてるメイツ🙋🙋🙋は、将来食べられちゃう不安とかあるのかなあ。

人間だけが言葉を持つとか、自分の存在がなくなることをこわがるとかいうのは、人間の驕りだけど。まあなんというか、わたしたちは人間だからそれ以上の領域にまで意識を入れられないし当たり前なんだけどさ。これってわたしが言ってる、経験したこと以外考えられない のいい例えじゃない?科学的に証明されてるかもしれないけど、わたしたちが経験した科学よりもっと広範なカガクがあるかもしれない。

あと同様に、いわゆる鬱が本当にわからない。わたしは鬱になって外に出られなくなるとかはないと思う。その間だれかに頼って生きていかなきゃいかないことがそもそも鬱だし、むり。死ぬときは声かけてくれよって感じ。

何度も書くけどソリストになれない時点でわたしの人生に価値はないし、そんなことないよって言うやつは頭おかしい。わたしの人生の価値はわたしが決めるんだよ。意味ない。ハイ終了!

 

 

...自殺する勇気もない(失敗して障害が残ったらそれこそ惨め)し、なんとか1人で生きていきたい。そのためには、その手段として、働かなくちゃいけない。なんか、家族がいるから休みの日に好きなように行動できないとかそれこそメンヘラになりそうだし、そういう面もひっくるめて、人といることにメリットを感じない。旦那さんがどんな稼ぎ良くても、それが他人であることには変わりはないし、見捨てられないために自分も役割を果たさなきゃいけないし、窮屈すぎる。

 

 

そんなことをブチブチ語れる友だちを失ってしまいました。本当に、ふとした時に、わたしはひとりぼっちだなと笑ってしまいます。ひとりぼっちって言葉、なんというか好きじゃないけど。

 

わたしはこれから、きれいに育った人間をたくさん見ることになるんだろうし、そういう場所に自分がいこうとしているんだから仕方ないんだけど、どうしたらいいんだかわからなくなる。

 

音信不通の子、ちゃんと連絡を取りたいんだけど、それに割く心の余裕もなく、つまり、わたしは「おもしろければ(わたしの望む以上のレスポンスをくれれば)だれでもいいんだ」という人間なのであって、だから、「彼女以上の友だちはできなそう」って思うのかと、性根の腐りを実感してます。

 

放牧されたい。人間のまま放牧されたら、なんか絵面的に気持ち悪いから、なんか別のもの(あるいは感情を失った人間)になって、放牧されたい。